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家の履歴書 かこさとし その4 [スズムシ日記]

■高等学校2年生になると、文科・理科の学生ともに三菱の戦車工場に動員となる。43年、全員が大田区下丸子にあった工場の寮に入り、二交代制で工場勤務にあたるようになった。

 それで、クラスがバラバラにならないようにと、雑誌を作り始めました。『マント』というタイトルで、月2回発行。論説や俳句などの投書に挿絵を入れた手書きです。回覧すると同時に、体懇時間の集りで朗読もしまたね。

 こうした最中、盲腸が化膿して入院したのですが、このとき国語の教師だった俳人の中村草田男先生がお見舞いに来てぐださったんですよ。当時、工場の寮はノミがひどくてね。中村先生と二人でポリポリかいていました。

 中村先生は僕が書いた俳句を見つけて、「これは切れ字が二つもあるじゃないか」なん添削してくねたんです。さらに、枕元に置いてあった『マント』も読んでくださって、「この戦時中に、理科の君たちが回覧雑誌を作るのは、とってもいいことだ。がんばりたまえ」とおっしゃった。嬉しくて、有頂天になってしまいました。なかには軍部の悪口を書いたものもあって、てっきり怒られると思っていましたから。

 その後、僕が絵本を描くようたなった頃に、中村先生も童話を始められたとうかがいました。また先生と、今度はノミのいないところで、童話論を教えていただきたいと思っていましたけれど、残念ながらその機会がないまま先生はお亡くなりになってしまいした。

■下丸子の工場寮が火事で焼けたため、各自自宅から満員電車で工場に通い、二年で卒業。45年、東京大学工学部の応用化学科へ入学。しかし4月、空襲によって板橋の自宅が焼失。バラックや寄宿舎などを転々とする。戦況がさらに悪化してからは父親の実家のある三重の島原へ身を寄せた。

 敗戦を迎え、9月に一人で中野区鷺宮に下宿し、以後、板橋、文京区千駄木を転々とする。

 僕は視力が悪くて軍人になれなかったけれど、目のよかった仲問は、みんな特攻になって死んでしまった。死にはぐれです。食料難の時代、食べるために生き、生きるために食べているような毎日で、何の為に生きているのかと煩悶した。

 軍人を志したのは自分で判断を誤ったのですから、誰を責めるわけでもない。しかし、私と同年以上の大人は全員、同罪で、戦争にも、敗戦にも責任がある。自分も含め、世の中は信用ならんと思いました。子どもたちは私のような誤った判断をしないよう、真のかしこさを身につけるお手伝いをしていこう。それならば、終戦以降の「余命」を生かしてもらう意味があるかもしれないと考えるようになりました。

 子どものことをもっと知りたいと入ったのが、演劇研究会です。僕は工学部だったので、舞台装置などの裏方に回りました。このとき、芝居とは起承転結が必要なことなど、物語の展開の基礎を学びました。

(つづく)
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