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家の履歴書 加古さとし 5 終わり [スズムシ日記]

会社勤めをしながら絵本を描く日々。どちらも100%以上の力で取り組んだ。

48年、昭和電工に入社。目黒区大岡山の会社の寮をはじめ、川崎市下平間、溝口と転々としながら研究者生活を送る。焼け野原に工員住宅が次々と建った頃だった。55年、同じ会社の部長秘書だった奥さんと結婚。二女をもうける。

 会社に入ってから始めたのが、セツルメント活動と紙芝居です。人形劇の技術を知りたくて、会社が終わると人形劇団プークに足を運んでいました。そこで知り合った劇団員を通じて、東大セツルメントの子ども会を手伝うことになったんです。セツルは福祉救援活動のひとつで、奉仕活動として法律相談や塾などをやっていました。私は子ども会を担当していましたが、話をしたり、子どもを集めたりするときに、長屋のあんちゃんに教わったことがとても役立ちましたね。

 紙芝居は、最初は惨敗でした。おもしろくないと、一人減り、二人減り……と、みんなザリガニ釣りに行ってしまうんです。そして紙芝居が終った頃に戻ってきて、「もう終わった? じゃいっしょに遊ぼう!」って言うんです(笑)「おもしろかった?」なんて野暮な質問は不要。子どもたちの目の輝きや、反応のひとつひとつを見るのがなによりの勉強でした。『どろぼうがっこう』や『あかいありとくろいあり』などの絵本も紙芝居から生まれたんですよ。

55年、川崎市東古市場の市営分譲住宅に引っ越す。セツルで知り合った女子学生の勧めで、絵本を描き始めたのもこの家だ。

 福音館書店の松居直さん(後に会長・相談役)から「絵本をだしませんか」というありがたい申し出をいただいて、今の日本にふさわしいものをと最初に描いたのは、『だむのおじさんたち』という絵本でした。これまでのかわいらしい絵本とはだいぶ違うものでしたから、この本を見た他の出版社の方が訪ねてくるようになりました。本棚にズラリと並ぶ化学系の本を見た編集者に、「おとぎ話のようなものはだれでも描ける。理科のものを描いてください」といわれて、それから科学絵本を描くようになったんです。

 東古市場の家は、コンクリートづくりの長屋。とても狭くて、子どもが勉強する場所も、居間も、作業場もすべて六畳の部屋が兼ねていました。絵を乾かす場所もなく、これじゃ仕事にならんと、建て増しをして勉強部屋と仕事部屋を作りました。

 絵本の仕事をはじめてから、会社では120%の力で働きました。ほかのことに20%かかるから会社の仕事は80%にするというのは最低。一方に100%以上の力を出したという自負があってこそ、もう一方にも100%近い力が出せるんです。500人以上の部下をもって、帰宅は朝になったこともありましたね。

 私事で組織を乱してはいけないと、毎年正月に、日付のない退職願を書いて一年中懐に入れて出勤していました。

 それに、私の絵本を読んでくれるのはふつうの家庭生活を送っている人たちですから、芸術家気取りではだめです。生活を一人前にできないような落伍者が偉そうなことを言っても、読み手は鋭く見抜くでしょう。社会人としてまっとうに生きることが、絵本を描くうえでは大切だと考えていました。

 娘たちと一緒に遊ぶことはほとんどありませんでしたが、僕は子どもは子どもどうしで遊ぶのが健全、と思っているんです。以前、新聞記者が取材に来て、娘に「お父さんがこういうお仕事をしているから、たくさん遊んでもらえていいね」と気を遣って話しかけたところ、娘は我慢耐えかねるといった様子で、

「遊んでもらったことなんて、一回もないもん!」と答えていました。セツルに連れていっても、子どもの中に放り込んでいましたね。

 家族には、提出前の原稿を見てもらうことはありません。最初の頃、娘に見せていたんですが、ズケズケと思っていることを言われるもんだかち、がっくりしちゃうんです。描き直したいけれど、締め切りもあるし……、落ち込んでしまうので、だめですね。

70年、神奈川県藤沢市の片瀬山に土地を買い、作業場を兼ねた家を建てる。73年に48歳で昭和電工を退職。絵本件家として独立。50余年で出した絵本は600冊以上にのぽる。

 ワイフが土地を見つけてきました。時間がなかったものですから、現場を見ずに地図と図面だけで判断しました。

 資料がとにかくたくさんあるんですよ。絵本のアイディアになるメモをはじめ、子どもの遊びを取材したノートなどは、僕の宝物なんです。他の方から見ればクズのようなものかもしれませんが、製本されたものより、途中授階のものが大事でね。どれだけスペースがあってもおさまちず、ソファーの下に入れたり、棚の後ろに隠したりと、あらゆる場所を置き場にしました。

 のちに隣の土地が空いたので家を建て増ししましたが、それでもまだ足りず、離れの土地を買いました。ここは一時期、医者になった下の娘夫婦に貸して、孫の面倒を見たりしましたが、その孫も大学生になり、今は「総合研究所」という形で資料置き場になっています。

 あの頃、定年は55歳でした。10年手前の45歳のときに、児童文化の研究や絵本の仕事など、今後やりたい項目を数えたら、200を超えたんですよ。ざっと計算すると、1つの項目をこなすのに200時間はかかりますから、40000時間は必要です。45歳から始めてもなかなか間に合わない。ならば、少しでも早くやめようと思いました。それから実際にやめるまでに、およそ3年かかりました。

 ところがこの年になっても、どういうわけか、200項目は減るどころか増える一方。『だるまちゃん』のシリーズも、まだ相手役の候補が30くらいあって、続編を書かなければなりません。死にはぐれの命、余命も使命と思って、できるところまで項目を減らしていきたと思っています。

(おわり)
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