(朝日新聞論壇時評)16年2月25日朝刊 [スズムシ日記]
スズムシ:高橋さんの文章も高市総務相は多分歯ぎしりしているのじゃないかな?マスコミ界が平静でいることがおいらには不満だな。もっと激越になってみなさい。ああ、だめかな。東京新聞がいいみたいですよ。
優れた映画というより、観(み)る者を深く問いただす映画であるように思えた。
「ヤクザ映画」というジャンルがある。ファンも多い。そこには「ヤクザ」が出てきて反社会的な行為をするが、しょせんフィクションなので、わたしたちは安心して観ることができる。けれども「ヤクザと憲法」(〈1〉)は違う。ドキュメンタリーだから、出ているのは「ほんもの」のヤクザだ。殺人罪などで約20年服役した会長がしゃべる。組員たちが怪しげなふるまいをする。それが彼らの「日常」だ。だが、彼らは同時に追い込まれてもいる。様々な法によって。
会長がカメラの前に分厚い紙の束を置く。全国のヤクザたちからの悲鳴にも似た「人権侵害」の訴えだ。親がヤクザなので幼稚園に通うことを拒否された。銀行に口座を開くことを拒まれた。だが、反社会的な集団である彼らは人権など主張できないのではないか。ふと、そう思う。すると、画面に唐突に、こんな文字が浮かび上がるのである。
「日本国憲法第14条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又(また)は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」
もう一度書く。彼らのような反社会的集団には憲法が保障する人権は適用されないのか。そのことを考えたくなる。そして、憲法や人権が何なのかも。だが、それはいまとても難しい。論じる場所がないからだ。当事者であるヤクザを登場させるだけで、便宜供与をしたと批判される。ならば、そんな厄介なものには手を出さない。メディアが逃げ腰になりがちなテーマを掲げたこの挑発的な作品が、一テレビ局によって作られたことに、わたしは感銘を受けた。
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この春のテレビの番組改編で、安倍政権に批判的な看板キャスターやコメンテイターが同時に降板する。川本裕司の綿密な取材(〈2〉)が明らかにしているように、政治的な圧力のせいなのか、それとも「自主規制」なのか。
毎日新聞は、海外メディア東京特派員の声をとりあげた(〈3〉)。「利用価値のあるメディアの取材には応じ、批判的なところには圧力をかける『アメとムチ戦略』。そうやってリベラル勢力の排除を徹底しているのが安倍政権だと思います」という声。あるいは、総裁再選直後の会見で、質問が自民党記者クラブの所属記者だけに限られたことについて。
「外国人記者外しは、逆に言えば、日本人記者の質問は怖くないと政権・与党になめられているということ。それに対して、なぜもっと怒らないのですか」
「世界報道自由度ランキング」で、民主党政権時11位だった日本は、昨年3月61位と先進国で最下位にまで落ちこんだ。だが、そのことに対する危機意識は、意外なほど乏しい。メディアはもう「萎縮」してしまっているのだろうか。
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去年のノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの受賞記念講演が雑誌に掲載された(〈4〉)。タイトルは「負け戦」。旧ソ連時代のウクライナに生まれたベラルーシ(白ロシア)の作家である彼女の主著は文庫化され、手に入りやすくなった。権力の好まぬ彼女の物語を、いまこそ読みたい。
最初の本は『戦争は女の顔をしていない』(〈5〉)。旧ソ連は、第2次大戦時、他国と違い、百万を超える女性が従軍し、ときに兵士として戦った。そんな女たちの声を集めた。それから『ボタン穴から見た戦争』(〈6〉)。ドイツに占領されたベラルーシでは実に人口の4分の1が亡くなったが、その戦争を目にした子どもたちの声を集めた。そして『チェルノブイリの祈り』(〈7〉)。チェルノブイリ原発事故でもっとも甚大な被害を受けたのは、彼女の母国、人口1千万の小さな国ベラルーシだった。その一帯では、多くの人間が亡くなり、故郷を追われ、家族を失った。そんな人びとの間に入り、彼女は声をひろいつづけた。
アレクシエーヴィチが書くのは小説ではなく、「『大きな歴史』がふつう見逃したり見下したりする側面」「見落とされた歴史」だ。彼女は「跡形もなく時の流れの中に消えていってしまう」無数の声を丹念に一つ一つ、ひろい上げてきた。
「それは文学ではない、ドキュメンタリーだという意見を何度も耳にしました……では今日、文学とはいったいどういうものを指すのでしょうか? この問いに答えられる人はいるでしょうか?……あらゆるものが自分のいた岸辺を離れます。音楽も、絵画も。ドキュメンタリーでも、言葉がドキュメンタリーの枠を超えてほとばしります」(〈4〉)
いま、独裁化の進む母国ベラルーシにあって、アレクシエーヴィチは「萎縮」も「自主規制」することもなく「大きな歴史」が見逃してきた人びとの声に耳をかたむけつづけている。誰かが、その仕事を担わなければならないのだ。
アレクシエーヴィチはこういう。
「私が関心を持ってきたのは『小さな人』です。『小さな「大きな人」』と言っても構いません。苦しみが人を大きくするからです」(〈4〉)
歴史から忘れられてきた無名の「小さな人」たち。だが、彼女の本の中で、彼らは大きく見える。自分の過去と向き合い、何が起きたかを、勇気をもって自分の言葉で語りはじめているからだ。
「萎縮」や「自主規制」していたのはメディアだけではなかったのである。
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〈1〉映画「ヤクザと憲法」(土方宏史監督、東海テレビ制作)
〈2〉川本裕司(朝日新聞記者)「NHK『クロ現』国谷キャスター降板と後任決定の一部始終」(http://bylines.news.yahoo.co.jp/kawamotohiroshi/20160213-00054354/)
〈3〉毎日新聞「特集ワイド 海外メディア東京特派員らが語る 日本『報道の自由』の危機」(2月12日夕刊、堀山明子)
〈4〉スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ「負け戦」(世界3月号)
〈5〉同『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫、今月刊)
〈6〉同『ボタン穴から見た戦争』(同)
〈7〉同『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫、2011年刊)
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