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毎日新聞特集ワイド 16年3月1日夕刊 [スズムシ日記]

京大原子炉“6人の侍”の軌跡 原発の危険性、訴えて行動

DSCN4081.jpg最後の現役 今中助教も定年

京都大学原子炉実験所(大阪府熊取町)に原発の危険性を指摘し続けたグループ「熊取6人組」がある。地方に原発が押しつけられることに義憤を感じた人たち。故黒澤明監督の名作映画にちなんで「6人の侍」と呼ぶ方がふさわしい。その最後の現役、今中哲二助教(65)が来月で定年退職する。折しも福島第1原発事故から5年、4月は旧ソ連・チェルノブイリ原発事故から30年。双方に詳しい今中さんを軸に6人の軌跡をみていく。

スズムシ:先だって若狭に行ってきた。宿泊は敦賀。駅前には福井大学原子力研究所の建物があった。敦賀原発が停止して10000人の失業者が出て、敦賀は閑古鳥が鳴いてるって、タクシーの運転手が嘆いていた。それはそれで国がちゃんと保証しなさい!って思った。あと始末はしない。ほったらかしだ。庶民はかなわない。京大の侍は危険性を訴える。東大の原子力研の面々は為政者と一緒になって推進する。対極にあるね。6人組のことをもっと知っておこう。

住民運動、敢然と支援

 今中さんは広島市出身。祖母が原爆で死亡し、母親も被爆した被爆2世だが、「それとは関係なく、当時は最先端技術とされ面白そうだったから」と大阪大学の原子力工学科に進学した。他の5人も、科学技術の進歩に夢を抱いて大学に入った。

 阪大から東京工業大大学院に進んだころに今中さんは原子力開発のあり方に疑問を持ち始め、1976年に京大原子炉実験所の助手(現助教)になった。そこに5人がいた。64~69年入所の海老沢徹元助教授(77)=中性子光学▽小林圭二元講師(76)=原子炉物理▽川野真治元助教授(74)=物性物理▽故瀬尾健助手=原子核物理--と、今中さんの2年前に入所の小出裕章元助教(66)=原子核工学=だ。

 「最後に入ってきた小出さん、今中さんは私たちに鮮烈な影響を与えた」と年長の3人は口をそろえる。2人は学生時代から原発の技術的な問題だけでなく、原子力開発が抱える社会的な問題に目を向けてきたからという。

 実は、2人とも公募の採用試験を受け、原子力委員会の専門委員も務めた教授(故人)が仕切る放射性廃棄物の管理部門に入った。

 なぜなのか。海老沢さんは「あの教授は2人が原発に批判的だったことは知っていたはずだが、能力のある人を採ったのだと思う。2人もその期待に仕事で応えた」と話す。

 かくして“京大原子炉6人の侍”がそろった。

 そのころ、愛媛県伊方町の四国電力伊方原発の地元住民が国を相手に設置許可取り消しを求めて松山地裁で訴訟中だった。6人は敢然と原告支援に回り、有利に法廷論争が進んでいた。しかし、結審直前に裁判長が交代となる不自然な経過を経て、住民側敗訴の判決が78年4月に出た(最高裁で敗訴確定)。

 翌79年の3月、今から考えれば、福島事故の発生を警告するかのような事故が起きた。米国のスリーマイル島(TMI)原発で、原子炉に水が供給されなくなって核燃料が溶け出すメルトダウン(炉心溶融)が起きたのだ。今中さんは「それまでは、事故が起こるかどうかは机の上の議論だったが、TMIから、原発の大事故は起きると断言できるようになった。問題はどれくらい危険なのかに移った」と振り返る。

80年から自主講座112回

 6人は80年、実験所内で市民が参加できる自主講座「原子力安全問題ゼミ」を始めた。ゲストも含め専門家が最新の原発情報などを提供した。国内外で事故が起こると、その影響や実態を調べて報告して議論を交わす。

 86年4月26日、ゼミで何度もテーマとなるチェルノブイリ原発事故が起きた。多数の人が死亡し、飛び散った放射能(放射性物質)によって200キロ以上離れた場所にも居住不能地域が出現した。

 瀬尾さんと今中さんは90年に現地入りした。瀬尾さんは94年に病死するが、ロシア語が堪能な今中さんは以降20回以上訪れて、深刻な汚染が広がったウクライナ、ベラルーシ、ロシアの研究者と情報を交換しながら調査を続ける。今ではチェルノブイリ災害研究の第一人者とも言われる今中さんは、20年以上にわたる調査から教訓を次のように語っていた。「原発で大事故が起きると、周辺の人々が突然に家を追われ、村や町がなくなり、地域社会がまるごと消滅する。そして、被災した人々にもたらされた災難の大きさは、放射線測定器で測ることはできない」

 だが、日本ではTMIやチェルノブイリが無視されるかのように安全神話が拡大し、54基もの原発が建っていった。

 2011年3月11日、福島第1原発で、炉心に水を供給できなくなり、1~3号機が次々とメルトダウンを起こした。中でも2号機で、外部への放射能漏れを防ぐ最後の壁「原子炉格納容器」が破損したと政府が発表したとき、今中さんは「チェルノブイリ級の事故になった」と確信し、ぼうぜんとした。東北や関東を中心に無視できないほどの放射能で汚染され、十数万人が避難を余儀なくされた。今も約10万人が避難生活を続け、「地域社会がまるごと消滅する」事態が国内で起きてしまった。

 大変深刻なはずなのに、政府から十分な情報が出てこない。住民避難の指示も的確とは思えない。今中さんは、事故があった3月に、避難指示がないが、深刻な放射能の情報があった福島県飯舘村に他大学の研究者と入り、調査を開始した。避難が必要な放射能汚染が村全体に広がっていることが判明した。飯舘村は、ようやく翌月に「計画的避難区域」として避難対象となる。

 今中さんは「文書上の原子力防災対策はうまくできていたが、実際に担う官僚機構が中央から末端まで混乱し、三つの原子炉と同じように原子力防災システムそのものがメルトダウンして、まったく機能しなかった」とみる。その上で「原子力ムラの人々は、何がなんでもといった感じで再稼働を進めるが、事故が起きたらまた同じことが起きるのではないか」と危惧する。

汚染地域の現実、研究継続を宣言

 2月10日、約150人が参加して第112回安全問題ゼミが開かれた。ウクライナの研究者と今中さんがチェルノブイリと福島を語った。

 伊方訴訟のころから一緒に行動してきた荻野晃也・元京大工学部講師は「6人がいなかったら、推進派の思い通りに原発がもっと建設され、大変なことになっていただろう」と指摘した。会場から「専門家と社会をつなぐこんな場が重要」と声が上がったが、昨年退職した司会役の小出さんは「基本的に安全問題ゼミは今回で最終回になるはず」と話した。

 だが、福島事故の過酷な現実がある。小出さんは「仙人になりたいが、当面なれそうにない」。今中さんは「余計な被ばくはしない方がいい。同時に汚染地域で暮らすとある程度の被ばくは避けられない。この相反する二つにどう折り合いをつけるか。できるだけ確かな知識と情報を提供して、汚染に向き合って判断するお手伝いをしたい」と福島とのかかわりの中で研究を続けることを宣言した。

 最後に今中さんは「今、原発はほとんど動いておらず、やめるのにはいい機会。若い人には何が本当に大事なのかもう一度考えてもらいたい」と呼びかけた。


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