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『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』 [スズムシ日記]

   スズムシ:毎日新聞今週の本棚(7月11日付)に三浦雅士の書評 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(カール・マルクス著、丘沢静也・訳)が掲載されていた。ボナパルトを中国の習近平になぞらえているのに強く惹きつけられるものがあった。流石三浦氏だ。

 

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習近平はルイ・ボナパルトか?

 名著の新訳。平易で読みやすい。訳者はドイツ文学者として著名。マルクスのこの「情勢分析」は、シェイクスピア、バルザックらへの言及に満ちている。適任だ。

 マルクス34歳の作。1848年2月のパリ2月革命から、51年12月のルイ・ボナパルトのクーデタにいたるまでの政治的推移を、臨場感あふれる筆致で描き出し、それを自身の明晰(めいせき)な歴史観のもとに分析してゆく。

 「ヘーゲルはどこかで〔『歴史哲学講義』で〕、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれる、と言っている。だが、こうつけ加えるのを忘れた。一度は悲劇として、もう一度は茶番(ファルス)として、と。ダントンのかわりにコシディエールが、ロベスピエールのかわりにルイ・ブランが、1793~95年のモンターニュ派のかわりに1848~51年のモンターニュ派が、伯父〔ナポレオン〕のかわりに甥(おい)〔ルイ・ボナパルト〕があらわれる」

 有名な冒頭である。訳者の補筆によって本書の要約になっていることがよく分かる。『共産党宣言』から4年、マルクスの歴史観は確立され、目前の事件までもその視点から分析されるにいたった。ブルジョア革命はつねにプロレタリアート革命を内包するという考え方は、後に二段階革命論、一段階革命論の確執として展開してゆく。

 史観とは図式である。図式を当てはめるには、出来事の抽象度を上げなければならない。現実にはそれが困難であることを、たとえばルンペンプロレタリアートという語の頻出が示す。ルイ・ボナパルトの取り巻きへの蔑称である。後のプチブル・インテリゲンチャの先駆。マルクスの考え方の癖を知るうえで重要な本だ。

 古典新訳をなぜいま取り上げるのか。ナポレオンとその甥の関係が、毛沢東と習近平の関係を思い起させるからだ。事実、習近平は意識的に毛沢東を模倣していると言われる。毛沢東と鄧小平の関係は、習近平と李克強に似ている。情報が多ければ、いっそう多くの対応関係を探ることができるだろう。

 だが問題は、この反復された毛沢東が何を明らかにするか、だ。

 コロナウイルス初期対応において情報を隠蔽(いんぺい)した中国共産党は、いまやほとんど四面楚歌(そか)にある。謀略的体質が、中国共産党のあらゆる政策に共通しているのではないかと疑われたのだ。その結果が興味深い。米政府による中国共産党幹部の在米資産凍結である。仮想敵国に財産を置くなど普通ありえない。だが、中国共産党幹部の場合は逆だった。億万長者が続々だったのである。

 習近平は腐敗を取り締まったが無意味だったわけだ。だが、この現代版ルイ・ボナパルトが明らかにしたのはそんな些事(さじ)ではない。1%の人間が99%の富を所有するということにおいて、中国共産党もアメリカ合衆国も少しも違いがなかったという事実である。

 1%の人間が99%の富を所有するのは悪である。事実、中国ではそれが腐敗の結果だと誰もが知っている。言わないだけだ。米国においてそれが合法的であるとすれば、法律が間違っているのだ。なぜそういうことになるのか考える真剣さに欠けている。マルクスがいま習近平とルイ・ボナパルトを並べるとすれば、中国とアメリカのこの酷似を指摘するためだろう。

まさに名著は名著である。(評論家)

 


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