SSブログ

『誤作動する脳』=樋口直美・著 [スズムシ日記]

『誤作動する脳』=樋口直美・著

 スズムシ:毎日新聞の今週の本棚(2052日付)に中島岳志さんによる「誤作動する脳」の書評が掲載されていた。読んでみようかな。

 誤作動しないってことはないとぼくはこの頃思うよ。特にこの頃は。年取ってくると、誤作動だらけだ。でも、それでいいのじゃないかとつらつら考える。でも、たとえば、コンピューターが誤作動して、大陸弾道弾が発射されると戦争が起こってしまう。そんな危険な分水嶺に僕たちは生きていることも事実だ。仮想敵をつくって、100機もアメリカから新型ジェット戦闘機を購入するのは、誤作動ではない。これは盟友に尻尾をふってしまう忠犬の正しい行いだ。

81adH5r-IKL._AC_UL640_QL65_.jpg 

「幻」との付き合い方を忘れた社会

 インドのヒンディー語に与格という構文がある。例えば「私はうれしい」というのは、「私にうれしさが(やって来て)留(とど)まっている」という言い方をする。この「~に」で表現する文法が与格である。

 与格は、特定の行為が意思の外部によって引き起こされる時に使う。「風邪を引いた」も「私に風邪が留まっている」と言う。何か不可抗力が働いて、行為が進行する時、与格が用いられるのだ。行為は意思に還元されない。

 著者は、長年原因不明の症状で苦しんできたが、50歳の時にレビー小体型認知症と診断された。記憶障害だけでなく、匂いもわからなくなった。香りが消えた世界では料理がうまくいかない。夫が味噌(みそ)汁を一口飲んで「おいしくない」と言った途端に、「じゃあ自分でつくってよ!」と思わず怒鳴った。これまで夫に怒鳴ったことなどなかったため、「性格が変わる」という残酷さに出会い、落ち込んだ。

 幻視、幻聴、幻臭。次々に「幻」が襲いかかる。

 あるとき、著者は音に乗っ取られるという体験をする。実家で父と会話していると、音楽を流しながら走る廃品回収車が通った。「私の脳は私の意志を無視して、その呑気(のんき)な音楽に食らいついたのです」。思考はシャットダウンされ、会話不能状態に陥った。どうすることもできない。

 とにかく、自分の意思でしたわけではないことが、次々と起こる。唐突に何かがやって来て、自分を支配する。脳が「誤作動」する。

 これは脳が機能不全を起こすことで、制御されていた感覚が鋭くなる現象とも捉えることができるだろう。眠っていた与格が前景化しているのだ。

 このとき昔話がリアリティをもって迫ってくる。著者は「狐(きつね)にだまされている」という昔話の言葉がしっくりくると言う。「私の考えや気持ちを無視して、私の体が勝手にヘマをやらかすのです」

 柳田国男の『遠野物語』にでてくる座敷童子(わらし)の話も「私の症状と似ている」。いないはずの人がそこにいる。昔話では、座敷童子の現れは、家に富と名声をもたらす。吉祥の訪れなのだ。しかし、昔話の世界は迷信とされ、現代社会から遠ざけられる。「『座敷童子だ! 福の神が我が家にも来てくれた』と喜び合う社会はもうありません。狐も人に憑(つ)かなくなりました。人に見えないものを見、聞こえないものを聞くと、『患者』となり、抗精神病薬を処方されます」

 幻視の話をすると、「霊感の強い人」と言われるが、納得できない。嫌だ。霊感だけで自分の症状を説明することはできない。

 健康な人でも幻視は存在する。天台宗の苦行・千日回峰行では、天狗(てんぐ)や狐が見えるという。瞑想(めいそう)を続けていると、幻視や幻聴が起こることがある。「人の脳には、生まれながらに幻視や幻聴を起こすスイッチが備わっているようなのです。私は病気によって、そのスイッチに誤作動を起こしやすい脳になったのだと理解しました」

 近代社会は「幻」との付き合い方を見失っている。著者の「病状」に対する自己分析は、近代的人間観が、いかに偏ったものなのかを突きつける。

 理性を過信する近代は、「幻」を「病」と捉え、その人を「患者」として社会から排除した。本書は、近代的人間観の正当性に一石を投じている。(東京工業大教授・政治学)

 

 


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。