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2011-10-19 [スズムシ日記]

東 直子の幼いとき 

 山崎努の『耳うらの星』の読書感想文?に刺激され、同書を随分前に読み終えた。同書は、あちこちの雑誌などに掲載された10年が経過したエッセイ集。女性独自の柔らかで鋭い感受性が随所に迸るビックリするほどのすがすがしい本だ。是非未読の人は読んだ方がいい と 本当に思う。幼稚園児のころの「まほうのかま」と題された話がすごい。どうやら感受のセンサーはそのころに磨かれたように思う。人は全てがそうだとやっぱり思う。

  私は人一倍身体が小さくて、鈍重な、成長の遅い子どもだった。他の子どもたちが軽々とクリアできることがなにひとつ上手にできなかった。体がうまく動かないし、なにをするにも自信がもてなかった。いや、自信もなにも、目の前で起こつていることすべてなにがなんだかよくわかっていなかった。「社会」というリズムに全くのることができず、いつもその外側にいるような気がしていた。

 気がつくと、まわりの友達が、折り紙やハサミでたのしそうに遊んでいる。自分も一緒に遊ぼうかなあ、とお道具箱の蓋をあけたとたん「お片づけの音楽」が流れてしまう。「♪おかたづけ〜おかたづけ〜」の妙に明るい歌を聴きながら、茫然と蓋を持ったまま固まるしかなかった。

 ある日、クレパスでゆっくり絵を措いていたら、幼稚園の先生から「なおちゃん、もう雲は描かなくていいからね」と言われた。今思えば時間がないから絵を描くのはやめようね、という意味だったと思うが、「描かなくてもいいってことは、描いていてもいいってことだよね」と考え、雲を描き続けた。先生に「雲は描かなくてもいいから」と何度強く言われるのだが、「でも描いてもいいんだ」魂が宿っているわからんちんは、幼稚園の時間の流れをせき止め続け、ひんしゅくをかっていた。(中略)

 そんなふうだったので、ときどきおもしろ半分にいじめられた。でも、なにをされても泣かなかったので、長くは続かなかった。感情と身体表現がうまく結びついていなかったのだと思う。あるとき近所の悪ガキの家に呼びだされて、大きな電車のおもちゃで殴られたことがあった。泣いてみろよ、と言われたが、泣かなかった。悪ガキはそのうち根負けして、しようもな、と言った。

 そんなころの愛読書は安房直子の『北風のわすれたハンカチ』(旺文社ジュニア文庫)だった。(中略)まま母に虐げられている女の子と森に住む孤独なまものとの、胸しめつけられる友愛の物語である。女の子はまものの棲む木に行き「小さいやさしい右手さん/あたしにかまをかしとくれ/氷みたいによくといだ/まはうのかまをかしとくれ」と歌う。すると、「とぎすまされて青光りしたかま」が、まものの右手に握られているのだ。私も「まほうのかま」がほしかった。涙にならなかった悲しさや苦しさが体にたまってくると、この歌を唱えた。まものは現れてくれなかったが、少し、元気になれた。あまり読み返すので、本はいつかバラバラと壊れてしまい、かわりに私は大人になった。(後略)


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