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吉増剛造2 いじめも経験、反抗心が創作の原点  [スズムシ日記]

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詩を書くきっかけは

 小学生の時、クラスで言葉の言い換えをして、自分にはたとえ方の能力があるな、と自覚したことがあります。授業で詩を書いた時も、書けるという感触が最初からあった。東京の啓明学園という私立校で、当時は大ブルジョアの子が多かった。うちは違うから、子供ながらに「工員さんが、コッペパンを持って歩きながら」なんて民衆詩のようなものを書いた。敗戦後の時代状況と、キリスト教の坊ちゃん学校に紛れ込んだ子の反抗心があった。

啓明学園に入ったきっかけは公立小学校でのいじめ?

 弱虫で引っ込み思案で、内にこもる子でした。それが和歌山に疎開してすっかり和歌山弁になり、東京の福生に戻って多摩っ子の中に放り込まれた。格好のいじめの対象になったわけです。

お父さんが「知らぬ存ぜぬ」を通した公立小の校長に直談判し、「こんな学校に子供は預けられない」と転校させたとか

 九州大学の工学部をでて零戦を追っていたような骨っぽい技術エリートで、根源的に反発を感じていました。2歳か3歳の頃に、おやじがくれた金属製の大きな飛行機のおもちゃをばらばらにして近所の子にあげたことがある。おやじに対しては生涯嫌な子でした。

 今思えば、そういう意識以前の乳幼児の時に決定されていたような生きがたさが、芸術衝動の原点かもしれない。

都立立川高校から、慶応大へ進みました

 高校でも隅っこでうつむいているような子だった。その頃の立川高校はバンカラな学校で、東大とか一橋、早稲田へ行く子が主流だった。そこで慶応を選んだのは、人が取らないコースを進もうという意識があったから。漢文が得意で中国文学を専攻しようと、当時有名だった吉川幸次郎先生のいる京大か、奥野信太郎先生のいる慶応と思った。現役の時は慶応を受け、落ちたら浪人して京大を受けるつもりでした。

なぜ漢文に興味を?

 中国語を日本語読みにしようとして返り点を使いますね。普通の日本語はすーっと下か横へ流れるのに、返り点で上がったり下がったりするじゃない。あの運動にいたくひかれた。言語内にひそむ異言語の系列に、異常に感応する子でした。それが1979年の詩集「熱風」につながります。

長編詩「絵馬」が収録された詩集ですね。行頭に「、」や「。」があったり、行の中央や下から言葉が始まったりする

 編集者が、小説に対抗して長い詩を僕に書かせたの。1千行の空間を支配しようとしているうち、上がったり下がったり、返り点のような運動が自然に出て来た。

それが詩集「ごろごろ」(2004年)になると韓国語に関心が向き、ハングルを織り込むようになる。韓国語辞典を持ち歩き、在日の詩人・金時鐘(キム・シジョン)さんに共感し、韓国の詩人・高銀(コ・ウン)さんとの対話へつながっていく。

 僕が表現しようとすることは、母語の随所に、とほうもなく違う炎や光を見つけていくことかもしれません。
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