人生の贈りもの 4 岡井隆(歌人) [スズムシ日記]
おれは医者の仕事も詠んでいる
Q 慶応大学医学部の卒業です。内科医というもう一つの顔がありましたね。
A 大学を出ると、まず東京都内の北里研究所付属病院、いまは北里研究所病院といいますが、あそこに勤めました。
Q ふだんはどのような一日でしたか。
A 午前中は外来へ行き、呼ばれれば病室の患者も診ます。午後はだいたい、みんな研究室に閉じこもって、研究を始めますね。顕微鏡をのぞいたり、検体を刻んで標本にしたり。お昼休みになると、研究室でご飯をつくるんです。ほんとに何というかな、食事も仕事も一緒くたで、みんなでいつも話をしながら生活している。
Q 大変だけど、楽しそう。
A ところが、ぼくは最初あまり熱心じゃなかったんで叱られた。それで奮然と目が覚めました。動物実験もやり、遺体の解剖もやり、文献もたくさん読みましたよ。
Q それが「仮説をたて仮説をたてて追いゆくにくしけずらざる髪も炎(も)え立つ」という歌のころですね。
A ここにはね、すぐれた先輩たちがいっぱい。当時の肺結核研究のトップクラスの人たちもいました。いろんな大学からの連中が集まった面白い研究所でね。研究室には慶応大学、東北大学、大阪大学などの出身者が混在していたんです。彼らとの日々は、若いぼくにとって大きい経験でした。
Q 医学と文学。いわゆる二足のわらじです。1963年の朝日新聞に「医者で社会派の前衛」という見出しの記事があります。
A 医者をやってて短歌もやってると「いったいどっちが本職だ」って言われたこともあってね。あるいは、暇な時間にちょちょっと書いてんだろう、と。要するにアマチュア的と見られる。やはり医者だった木下杢太郎や森鴎外についても、そのように見る傾向がありました。
ぼくは大学で歌を一生懸命勉強したわけではないけれど、しかし、両方とも同じように大切にやっていたつもりなんですよ。昔はそこが……、昔ってのは60年代、70年代までは、いまとちょっと違ってたんだねえ。言い訳じゃなくて、「おれは医者の仕事も歌のなかで詠んでいる。両方が一体化しているんだ」と考えていました。
Q 例えば「屍(し)の胸を剖(ひら)きつつ思う、此処嘗(ここか)つて地上もつともくらき工房」という歌などがありますね。
A 歌人も、ある職業を足場にして生活しているはず。そこが大事で、当時の文化人は文章を書くのも歌を詠むのも、自分の職業生活から生まれ出るものを書いていた。自分の職業を持って、いかに生きていくかということが直接、文学に結びついていたんです。
いまは違いますね。誰かの歌を読んでも、作者の職業は何だかさっぱり分かんない。自分の職業のことなんか、書いている作品のなかにほとんど表れないでしょう?
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