人生の贈りもの 5 岡井隆(歌人) [スズムシ日記]
政治から芸術へ、移ろう情熱
Q 医学生のとき、マルクス主義にひかれたそうですね。きっかけは?
A 旧制高校時代の親友や友人たちがどんどん左翼になっていった。それに対して、ぼく、初めは批判的だったんです。ところがね、いろいろ読んでいるうちに傾いていった。例えば、マルクスがジャーナリストだったころの論文とか、「ドイツ・イデオロギー」だとか。みんな、ああいうのを一生懸命読む。解説本みたいなものじゃなくて、基本文献をちゃんと読んで議論しているの、我々の時代はね。そうしないと馬鹿にされちゃうから。
Q 共産党の活動にも少しかかわったとか。
A ええ。共産党の末端に「細胞」と呼ばれる組織があったんです。慶応大学の医学生だったとき、細胞が運営している診療所に夜だけ通ってました。ところが一度、警察に踏み込まれてね。ガサ入れです。あれ、怖いですよぉ。
Q どんな感じですか。
A 当直で診療所にいたら、突然、ワーッと入ってきた。歌誌の原稿まで持っていっちゃった。歌集もだよ。
Q ご両親は心配だったでしょう。
A そのころ、母親が病気になっていたんです。こんなことやっていてパクられ(逮捕され)たら、母親が嘆き悲しみ、ひょっとしたら病が悪化しないだろうかと心配しました。だから細胞の親玉のところに行って、事情を話した。「2年間ここで働かせてもらって残念だが、手を引かせてもらう」と告げたんですよ。これも運命だね。
Q 結局、共産党には?
A 入ってない。入党寸前まで行ったけど。
Q でも、マルキストではあったのですね。
A そうだと思いますね。うん。マルクスのような考え方でなければ、日本はよくならないと、あのころは考えていました。
Q ちょうどそのころ、六全協(日本共産党第6回全国協議会)が開かれました。1955年ですね。「極左冒険主義」の誤りを自己批判し、学生たちに失望感が広がります。そのあたりから共産党とは距離を置くことになっていくのですね。
A そう。現実は党が語る「お話」と全然違うなあ、ということも見えてきました。体験から言うと、末端にはすごく純粋でいい人が多いんです。党の方針ではうまくいきっこないと分かっていて、がんばっている。東京の西の奥多摩に「山村工作隊」と呼ばれる組織の拠点がありました。そこに行ったらね、「これからは観光地として発展させなければ」なんて語っている。現実にそういうのを見ると面白いですよ。
Q 六全協の翌年、ソ連ではフルシチョフによるスターリン批判がありました。国際情勢も激動の時代でした。
A そこにおふくろの病気のことも重なって、心にいろんな思いを残しながら「政治から芸術へ」となっていくわけです。
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