SSブログ

人生の贈りもの 5 岡井隆(歌人) [スズムシ日記]

政治から芸術へ、移ろう情熱

 AS20150220002294_commL.jpg

Q  医学生のとき、マルクス主義にひかれたそうですね。きっかけは?

A  旧制高校時代の親友や友人たちがどんどん左翼になっていった。それに対して、ぼく、初めは批判的だったんです。ところがね、いろいろ読んでいるうちに傾いていった。例えば、マルクスがジャーナリストだったころの論文とか、「ドイツイデオロギー」だとか。みんな、ああいうのを一生懸命読む。解説本みたいなものじゃなくて、基本文献をちゃんと読んで議論しているの、我々の時代はね。そうしないと馬鹿にされちゃうから。

Q  共産党の活動にも少しかかわったとか。

A  ええ。共産党の末端に「細胞」と呼ばれる組織があったんです。慶応大学の医学生だったとき、細胞が運営している診療所に夜だけ通ってました。ところが一度、警察に踏み込まれてね。ガサ入れです。あれ、怖いですよぉ。

Q  どんな感じですか。

A  当直で診療所にいたら、突然、ワーッと入ってきた。歌誌の原稿まで持っていっちゃった。歌集もだよ。

Q  ご両親は心配だったでしょう。

A  そのころ、母親が病気になっていたんです。こんなことやっていてパクられ(逮捕され)たら、母親が嘆き悲しみ、ひょっとしたら病が悪化しないだろうかと心配しました。だから細胞の親玉のところに行って、事情を話した。「2年間ここで働かせてもらって残念だが、手を引かせてもらう」と告げたんですよ。これも運命だね。

Q  結局、共産党には?

A  入ってない。入党寸前まで行ったけど。

Q  でも、マルキストではあったのですね。

A  そうだと思いますね。うん。マルクスのような考え方でなければ、日本はよくならないと、あのころは考えていました。

Q  ちょうどそのころ、六全協(日本共産党第6回全国協議会)が開かれました。1955年ですね。「極左冒険主義」の誤りを自己批判し、学生たちに失望感が広がります。そのあたりから共産党とは距離を置くことになっていくのですね。

A  そう。現実は党が語る「お話」と全然違うなあ、ということも見えてきました。体験から言うと、末端にはすごく純粋でいい人が多いんです。党の方針ではうまくいきっこないと分かっていて、がんばっている。東京の西の奥多摩に「山村工作隊」と呼ばれる組織の拠点がありました。そこに行ったらね、「これからは観光地として発展させなければ」なんて語っている。現実にそういうのを見ると面白いですよ。

Q  六全協の翌年、ソ連ではフルシチョフによるスターリン批判がありました。国際情勢も激動の時代でした。

A  そこにおふくろの病気のことも重なって、心にいろんな思いを残しながら「政治から芸術へ」となっていくわけです。


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。