日本会議 18 [スズムシ日記]
皇室典範改正に反対する集会。歴代天皇の系図を手にとる参加者も(06年2月1日 憲政記念館)
民主党政権だった2012年5月30日、「皇室の伝統を守る国民の会」が東京で設立総会を開いた。会長は日本会議第3代会長の元最高裁長官・三好達(とおる)(89)だ。
当時の野田政権は、「女性宮家」の創設を検討していた。三好は強く批判した。
「有史以来一貫して守られてきた男系による皇位継承を改変することは、国家の連続性を断ち切る革命に等しい」
女性宮家を創設すれば女系天皇の容認につながる、という危機感があった。
実は、この日は2度目の「設立」だった。小泉政権下の06年、首相の私的諮問機関がまとめた女性・女系天皇を認める報告書に反対して発足したが、秋篠宮家の長男誕生で休眠状態になっていた。
女系天皇を認めるかどうか。この議論は、日本会議を含む右派・保守陣営に亀裂を生んだ。男系維持とする側から総攻撃された論客の一人に、歴史学者で元皇学館大学長の田中卓(たかし)(92)がいる。
皇国史観の中心的存在だった東大教授の平泉澄に師事。「YP(ヤルタ・ポツダム)体制打倒」をいち早く訴えるなど、民族派運動の理論的支柱として知られる。
「男系女系、どちらもすばらしいと言った。男女の産み分けはできない。それが人生です。天皇家にだけ男系男子を求めたら無理がくる。そういう意味なのに『女系派』『左翼』とか非難されてね、驚いた」
田中は、日本会議事務総長・椛島有三(かばしま)(71)の若き日を知る人物でもある。
左翼全盛の1960年代、長崎大の学生自治会を選挙で掌握した椛島らの民族派運動は反響をよんだ。69年3月、椛島を実行委員長に「第1回全九州学生ゼミナール」が長崎・雲仙で開かれた。皇学館大教授の田中は翌年3月の第2回に講師として招かれた。
「椛島有三兄が一切の世話をしてくれる。人材なり」。田中は日記にそう記した。
2人の親交は続き、田中の見立ては当たる。民族派学生組織「全国学生自治体連絡協議会」の中心だった椛島は70年11月、そのOB組織「日本青年協議会」を結成する。「日本を守る国民会議」事務局長を経て、97年には日本会議の事務方トップに立った。
「彼がやるなら、日本会議は間違いない」。そう思っていた田中が、椛島の立場をおもんぱかるようになったのは女系天皇をめぐる論議が起きたころからだ。
田中によると、椛島は当初、「皇位継承問題で、日本会議は運動しない」と話していたという。だが、06年の椛島からの年賀状には「約束を守れませんでした」との添え書きがあった。
日本会議は女系天皇を認めない姿勢を強め、田中を論文などで批判する教え子も現れた。3年前の田中の新書「愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか 女性皇太子の誕生」にも日本会議側は強く反発した。
田中は残念がる。「椛島君は組織に絡め取られたようだ。言いたいこと、やりたいこと、今の彼にはできないのじゃないかな」
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