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日本会議 17 [スズムシ日記]

自民下野「保守は結束しろ」 2016128

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新生党が政権奪還 初閣議に臨む 細川総理 公明党石田 新生党羽田(9389日)

 日本会議は1997年5月30日、「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」が統合してできた。国民会議は元号法制化運動から発展し、守る会には右派の宗教人が多く属していた。

 その約2カ月前、東京で開いた国民会議最後の総会で、議長の作曲家・黛敏郎が体調不良をおして登壇した。黛は日本会議の会長に就任予定だった。「新しい力を手に真の世論を形成していくべきだ」

 だが3週間後の4月10日、黛は肝不全で死去。初代会長にはワコール創業者の塚本幸一が就任し、日本会議は東京のホテルに約千人を集めて設立大会を開いた。

 なぜ、この時期に日本会議が結成されたのか。

 当時の自民党参院幹事長・村上正邦(84)の後援会長は、黛が務めた。その村上が後年、理由の一つとして、細川連立内閣誕生に伴う公明党の政権入りを挙げていた。

 改めて村上に確認した。

 「そう、一つには公明党創価学会対策です。『学会には天下を渡さない』。そういう教団は多かった。創価学会に負けるな、自民党がんばれ、保守は結束しろとね」

 立正佼成会や霊友会、佛所護念会教団など新宗教団体や神道政治連盟は、創価学会公明党への対抗上、自民党議員を中心に支持してきた。

 93年、非自民細川政権の誕生で公明党が連立に加わると、対抗心は危機感に変わった。94年には創価学会公明党に批判的な文化人や宗教関係者が「四月会」を旗揚げした。

 四月会代表幹事だった元テレビキャスターの俵孝太郎(86)は「靖国や憲法は教団ごとに考えが違う。そうした問題には触れないことで団結した。黛さんも加わってくれたんだが、度量が大きくて国民運動にはうってつけの人だった」と振りかえる。

 ところが、自民党は政権復帰後、徐々に公明党創価学会に接近する。99年に自民、自由、公明の3党連立政権が発足。その後は民主党政権を除いて、公明党は政権与党であり続けている。

 村上は渋い顔だ。「政権から出て行ってほしいと思うけれどね。日本会議公明党が内閣の脇を固める形になっちゃってね」

 「日本会議国会議員懇談会」という超党派の議員連盟がある。首相の安倍晋三(62)と副総理兼財務相の麻生太郎(76)が特別顧問で、約290人が加わる。保守運動に詳しい「子どもと教科書全国ネット21」事務局長の俵義文(75)によると、テーマごとに結成される例が多い他の議員連盟とは違い、日常的に影響力を行使できる態勢をとっているのが特徴だという。

 中心は首相補佐官の参院議員・衛藤晟一(せいいち)(69)。日本会議の事務総局を担う「日本青年協議会」の黎明期に委員長を務めた。日本会議事務総長・椛島有三(71)の盟友だ。

 この日本会議国会議員懇談会のなかにも、いまや学会票なしには当選が危ういとみられる有力メンバーがいる。公明党創価学会への対抗という当初のねらいは影を潜めたように見える。

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