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家の履歴書 加古さとし その3 [スズムシ日記]

35年、父親が板橋四丁目に家を建てる。学費と生活費をまかなうため、同時に南側に二軒の貸家も作った。

 親父は、兄貴を医者にさせたかったんです。だけど医大がだめで、東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)に入学した。私のところまでは学費は回っこないだろうと感じていたので、小学校高学年になる頃から、自分の将来は自分でなんとかしなければと思うようになりました。ヒコー(飛行)少年だった僕は、親に金銭的迷惑をかけずに飛行機乗りになるために、軍人の航空士官になろうと思っていたんです。

 中学では図書館に入り浸りました。貧乏で本も雑誌もない非文化的な家に育ちましたので、図書館では夏目漱石や芥川龍之介など、文芸作品を読みあさりました。しかし、軍国主義はなやかな時代、先生に「15歳というのは元服だ。将来の道を決めて進んでいかねばだめだ」と一喝されて、軍人になる勉強ばかりするようになったんです。文学など読んでいたら軟弱になってしまうと、自分で図書室の入室禁止を決めました。

 ところが、近視がどんどん進んで、海軍兵学校も陸軍士官学校も受けられなくなってしまった。それまで励ましてくれた担任や指導教官から「軍人にもなれんような役立たず」と正反対の扱いをきれるようになったんです。理不尽でしたね。

 高等学校は、成蹊高校(旧制)の理科へ進みました。官立高校は一回しか受けられず、すべったらすぐに出征しなければなりません。士官になろうと思っていたのに、それではマズいと、官立の前に私立も受けることにしました。成蹊高校ほ、受かっても授業料が高くて行けないし第一、難しいから無理だろうと思って親父には内緒で受験したんです。二次試験までの受験費用は、自分の郵便貯金をおろして払いました。それが、どういうわけか受かってしまった。二次試験に合格した日、たまたま風邪で寝込んでいた親父に枕元で、「二次試験に受かったのですが、やらせてもらえますか」と言うと、親父は黙ってうなずいてくれました。官立に行けばよかったのに、親父に申し訳なくってね。戦争で、三年のところ二年になったのが、せめてもの救いでした。

(つづく)


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