SSブログ

思想の後姿 高橋源一郎追悼文 [スズムシ日記]

 けれども、吉本さんは、「正面」だけではなく、その思想の「後ろ姿」も見せることができた。彼の思想やことばや行動が、彼の、どんな暮らし、どんな生き方、どんな性格、どんな個人的な来歴や規律からやって来るのか、想像できるような気がした。どんな思想家も、結局は、ぼくたちの背後からけしかけるだけなのに、吉本さんだけは、ぼくたちの前で、ばくたちに背中を見せ、ぼくたちの楯になろうとしているかのようだった。

 ここからは、個人的な、「ぼくの吉本さん」について書きたい。

 ぼくもまた、半世紀前に、吉本さんの詩にぶつかった少年のひとりだった。それから、吉本さんの政治思想や批評に驚いた若者のひとりだった。

 ある時、本に掲載された一枚の写真を見た。吉本さんが眼帯をした幼女を抱いて、絵本を読んであげている写真だった。それは、ぼくが見た、初めての、思想家や詩人の「後ろ姿」の写真だった。その瞬間、ずっと読んできた吉本さんのことばのすべてが繋がり、腑に落ちた気がした。「この人がほんものでないなら、この世界にほんものなんか一つもない」とぼくは思った。その時の気持ちは、いまも鮮明だ。

 大学を離れ、世間との関係を断って10年後、ぼくは小説を書き始めた。吉本さんをたったひとりの想像上の読者として。その作品で、ぼくは幸運にもデビューし、また思いがけなく、その吉本さんに批評として取り上げられることで、ぼくは、この世界で認知されることになった。ぼくは、生前の吉本さんに何度かお会いしたが、このことだけは結局、言いそびれてしまった。おそらく、それは「初恋」に似た感情だったからかもしれない。ぼくが、この稿に適さぬ理由は、そこにもある。

 吉本さんの、生涯のメッセージは「きみならひとりでもやれる」であり、「おれが前にいる」だったと思う。吉本さんが亡くなり、ぼくたちは、ほんとうにひとりになったのだ。(おわり)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。