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パヨカカムイ [スズムシ日記]

スズムシ:毎日新聞「余録」。20621日付には「アイヌの人々には…」と題し、疫病が退散したことの謂われが記述されていた。引用されていた絵本「パヨカカムイ」を早速アマゾンから取り寄せた。イラストがいいね。そして著者はアイヌの文化伝承に努める萱野茂さん。アイヌ初の国会議員(1994年から1998年まで参議院議員)だったね。萱野茂二風谷アイヌ資料館館長も務め2006年に亡くなった。76歳だったそうだ。


 


 


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アイヌの人々には、パヨカカムイという、病気をまき散らす神の言い伝えがある。疫病を広めようと集落に立ち寄ったが、村人の語るユカラ(少年叙事詩)に聞きほれて仕事を忘れたため、村は難を逃れたという(絵本「パヨカカムイ」文・萱野茂)


 


そんな病神が去るのを一日千秋の思いで待っていたのが、北海道白老町に整備されたアイヌ文化の復興拠点「民族共生象徴空間」の関係者だろう。施設の愛称は「ウポポイ」。新型コロナウイルスの感染拡大のため2度にわたりオープンが延期され、やっと来月12日に開業の運びとなった


 


ウポポイは、政府が国立博物館や公園、アイヌ民族の遺骨を納めた慰霊施設などを整備した複合拠点だ。アイヌ文化を伝える工芸品など収蔵品は1万点にも及ぶ


 


今月、緊急事態宣言の解除を受けて、地元町民を対象に初の内覧を実施した。アイヌ語を「第1言語」として優先した表示や、江戸時代に作られた木造船など豊富な展示が関心を呼んだ


 


北海道では、コロナ禍がなおくすぶっている。さきの内覧でも参加者への検温や、距離を保つなどの対策が徹底された。来月にスタートしてからも、当面は感染状況をにらみながらの手探りの発進とならざるを得まい


 


ちなみにウポポイという耳に残る愛称は、アイヌ語で「おおぜいで歌うこと」を意味する。存続の危機にあるアイヌ文化を守り、再興する決意の証しとなるべき拠点である。パヨカカムイが仕事を忘れ、共生の歌声が響き渡る日を待ちたい。


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「Moonlight」 [スズムシ日記]

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スズムシ:あたらしい生活様式 ショートショートにしたら と題したショート小説。朝日新聞(20年6月10日日付夕刊)に掲載されていた。題は「昔話」。中身はたいしたことがないとぼくにはおもえたのです(失礼)。書いた人は北野勇作さん。それに添えられていたイラストがすてきだったので紹介しよう。作者は(YOUCHAN Moonlight」)とある。


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おなかの突き出たひげ面の男性が… [スズムシ日記]

スズムシ:毎日新聞(20年6月10日付朝刊)の「余録」は玉井源人さんのエピソードが掲載されていた。全国の幼稚園などをめぐって、壁画を描いているという。京都出身だそうだ。巨漢でもあるという。どんな人なのかな?お会いしたいものだ。

 

おなかの突き出たひげ面の男性が、子供施設でメルヘン調の絵を描いていたら、ゲンさんかもしれない。京都府出身の玉井源人(げんと)さん(47)。美大卒業後、自ら保育園や幼稚園を訪ね、塀や壁に塗料で絵を描いた。「子供はうそをつかれへん。だから子供のために描くのは楽しい」

口コミで評判が広がり、仕事依頼が増えた。回った施設は北海道から沖縄まで全国に約500。今では注文が絶えない

トイレの壁に可愛いクマを描くと、一人でトイレに行けなかった子が「先生、もう付いて来なくていい」と言った。しっくいの防菌、防臭効果を念頭に10年前、ゆるキャラ「しっくい丸」を生む。子供を病気や悪臭から守るため、ローラー片手にしっくいを塗る忍者のイメージだ

先週末、埼玉県熊谷市の「まことこども園」に、汗だくのゲンさんがいた。塀には色とりどりのシャボン玉の絵。風に吹かれ玉が飛んでいる様子に、登園中の親子が言った。「園が明るくなったね」

新型コロナウイルスの緊急事態宣言が解け、元気な声が戻ってきた。ただ、棚澤(たなざわ)千登世教頭によると、緊張している親子は少なくない。手洗い励行、「3密」警戒。子供にもストレスはある。かつてトイレを怖がった子を救ったように、絵で恐怖心を和らげたい。ゲンさんの思いだ

来週から弟子の木津幹博さん(41)と2人で沖縄を回る。4月に作ったゲンさんの名刺には、体重100キロに似合わぬ小さな字で決意表明があった。「子供たちの未来を描きつづけます」

 


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居るのはつらいよ [スズムシ日記]

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上田紀行さんの新聞記事「読書日記」に紹介されていた『居るのはつらいよ』を読了した。上田さんの日記から触発されてのこどだけれど、ホントにいい本だ。東畑開人さんは沖縄の精神科クリニックに4年勤務していて、本業はカウンセリングなのに、クリニックに併設されているデイケアでも勤務し、ケアとセラピーの両方に関わる貴重な体験をし、ケアの「ただ居ること」だけでいい(アジール)ことが、現代では、その意味を商品的な価値から判断され、デイケアを食い物にする悪しき資本の散在する現実に狼狽え、傷つき、血反吐さえ吐いてしまう。その彼は現在では、十文字学園女子大で准教授として学生におしえ(多分ケアのことだろう)、「白金高輪カウンセルルーム」を開設するまでになっている。言わば成功者の若き日の格闘日記でもある。

 

本の中に、精神科医の中井久夫の一節を紹介しながら、「心と体」について思考している部分がある。デイケアのメンバーとの生活の中でのことが、「人と人の係わり」(教育もまた)について、極めて示唆に富んだものになっているので、紹介しよう。教育に関わる人は是非、読了したい本だ。コロナ禍のなかでどう子どもたちと関わるべきか、新たな展開を求められている現場の人達に贈りたい。

デイケアに通うメンバーさんたちは統合失調症に罹患し、それから立ち直れないでいる。長いこと……。それでも居場所が必要だからデイケアに通う。そしてただ居るだけの生活を繰り返し行っている。渦巻きのような円環運動だ。でもあやういバランスで心を薬物などで平生に保っているが、あるきっかけでそのバランスが崩れ、火事のような状態になる。メンバー同士での一発触発の場面もでてくる。そんな時、看護師は消防士のように鎮火するよう絶えず気配りを怠らない。その気配りの一つがメンバーさんの『体』に触れることだった。

以下、東畑さんの文章を引用しよう。

 

 メンバーさんの体には触れられることを求めるときがある。触れられることをどうしても必要とする体もある。これはぼくたちが普段思い浮かべている「心と体」といときの体とは少し違う。そうやって割り切ってこくとができないような「心と体」未満の体だ。そこでは心と体がぐちゃぐっちゃに溶けてしまっている。

 中井久夫は心と体を分けておくのは、それが便利だからだという理由にしか過ぎないと言っている。分けておくと便利なのは、コントロールしやすくなるからにすぎない。指にイボができたとき、これを「心がけが悪い」とか「神の祟りだ」とか言い出すとややこしくなるから、液体窒素で焼いて処理したほうがいい。体のことは体のことにしておくと便利だ。恋するたびに、心臓外科で治療したもらったらどうかしているでしょう。心のことも心のことにしておくほうが楽なのだ。

 僕らの生きている世界をある程度コントロールしてくれている近代科学は、デカルトが心と体を分割してくれたことから出発したといわれる。彼は世の中のありとあらゆるものをすべて疑ってみるというエキセントリックなプロジェクトを遂行して、「我考えるゆえに我あり」という境地に達した。そして、そこから心と体が別々のものであることを発見した。体は体、心は心。デカルトは何が何だか分からないグニャグニャした世界を、すっきりと便利なものにしてくれた。

 だけど、じつはそういう便利な状態でいられるのって、余裕があるときだけだ。心と体はいつでも分割されているわけではない。普段はきれいに分割されているように見える心と体には、実際のところグニャグニャしたままの部分もある。そのグニャグニャは余裕がなくなり、追いつめられると、顕在化しやすい。嫌な人のことを考えるとお腹が痛くなることがあるし、緊張すると手先が震える。顔を叩かれたことで心までコナゴナになることがある。調子が悪くなると、心と体は容易に混同されてしまう。それらが混じった何かが現れる。

 こういうことについて、中井久夫は次のようにうまいことを言っている。

 <こころ>と<からだ>ということばを両方ともやめて、なんでもよいが、「こらだ」で両方をあらわすとおかしなことになる

 調子が悪くなって「おかしな」状態になるとき、心と体の境界線は焼け落ちる。そのとき、心と体は「こらだ」になってしまう。恋をするとき、心だけが恋をするのでなく、心臓がバクバクするみたいに、僕らは全身で恋をする。

 そう、火種が燃え広がり、薄皮が焼け落ちてしまうと、こらだが現れる。「こらだ」は不便だ。「こらだ」が現れるとき、自分で自分がコントロールできなくなってしまうからだ。「こらだ」は暴走する。自分のことが自分じゃなくなってしまったと感じる。「こらだ」に振り回されてしまう。

 ここがとても重要だ。「心と体」というふうに分けておくと、自分のものは自分のものにしておけるし、他人のものは他人のものにしておける。「心と体」はとてもプライベートで、誰も勝手には侵入できない神聖不可侵なものだ。ほら、満員電車で誰かと体が触れると嫌な気持ちがするではないか。あれはプライベートなものを侵されている感じがするからだ。

 「こらだ」は伝染力がある。「こらだ」を目の当たりにしたとき、ぼくらの「心と体」まで「こらだ」になってしまう。目の前で老人が転倒したとき、居ても経ってもいられず、つい手を伸ばしてしまうのは、僕らの「こらだ」が反応しているからだ、他者に開かれた「こらだ」は実際に他者の「こらだ」を引き出す。

 セラピーを学んできたぼくは「私は私、あなたはあなた」を叩き込まれてきた。心の問題を扱うセラピーとは、極めてプライベートな内容をプライベートに扱うものだから、「私は私、あなたはあなた」という近代的個人が大前提になる。だから、ぼくは厳重に管理された国境線を尊重し、無断侵入をしないように、最大限に配慮する訓練を受けてきた。そういう意味でぼくは徹底的にデカルトの末裔だった。

 どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない(デカルト 方法序説)

 デカルトが「心と体」を分離して、近代的自我を発見したときの言葉だ。この他者を寄せ付けない圧倒的な孤独が、セラピーの根底にはある。

 だけど、デイケアは違う。デイケアには「こらだ」になりやすい人たちが集まっている。孤独になると「心と体」を分かつ薄皮が燃え去りやすいから、誰かと共に「いる」ことを必要としている人たちが集まる。彼らは他者に開かれていて、そして他者を必要としている。

 看護士たちは、メンバーの体に触ったのではない。彼らの「こらだ」に触れていたのだ。自分の「こらだ」とメンバーの「こらだ」を重ねたていたのだ。そうすることで、かれらの「いる」を確保しようとしていたのだ。バランスを欠き、コントロールを失った「こらだ」は、ほかの「こらだ」と一緒にいることで落ち着きを取り戻すからだ。」

 

 スズムシはむか〜し、今は文科省の教科調査官になった岡田さんが、あばれんぼうに手を焼いて困っていると言われたとき、「ぎゅっとだきしめちゃえばいいんだよ!」と彼女を励ました。図工の時間もまた、表現至上でなく、こらだと向き合いたいものだ。


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